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御巣鷹の尾根:登山記 2010年8月 [まじめな話系]

※御巣鷹の尾根は、当時の上野村村長が錯誤していたものであり正しくは高天原山の尾根です。
※この記事は通称名である「御巣鷹の尾根」と表記します。



数年前のお話になります。

やっと・・・今回の事を話す心境になれました。タイピングし始めては止めてしまう事を数度しておりました。



JAL123便墜落事故があったのは1985年8月12日。毎年ニュースなどで取り上げられ日本人がこの事故を忘れる事は無いでしょう。

2010年のある日、慰霊登山をしようと決心しました。8月12日の前後はご遺族の皆様が登山する日ですから、その後の8月27日に向かいました。

長年の間、行かねばならぬと思ってはいたけれど、つかないでいた決心がついたのでした。

この事故の生存者は4名。しかし事故直後はそれよりも多くの生存者がおり、男の子もいたそうです。その子のエピソードを思い出すたびに僕は胸が痛くなりました。犠牲者の皆さんと、その子にお線香を上げにいきたいという思いがずっとありました。(非番で搭乗し生還した落合さんの証言にて語られた男の子)

その年の8月12日は、前原国土交通大臣(当時)が現地を訪問。その様子をニュースで見ておりました。数日後に向かう事になる訳ですからニュースを神妙な気持ちで観ていた記憶があります。

※報道であまり触れられない事実ですが、8カ国の外国籍の旅客も登場しておりました。





★往路
終日よく晴れていました。

クルマにて、飯能市付近から国道299に入りました。基本的には国道299のみで上野村に到着します。秩父市、小鹿野町を抜けた辺りから国道299はかなり細い道なります。道中には恐竜の足跡の化石などがありますが、似たような風景の峠道を、ひたすら山の上に向かい走り続けた記憶があります。


上野村に着くと、普通な山奥の村という印象でした。町中に一本の国道(299)が走っており、それがメイン道路です。メイン道路の脇にお土産屋さんなどがありますが、上野村といえばその一本の国道が印象に残る静かな村です。

上野村から通称:御巣鷹の尾根に向かう道は長いトンネルがいくつもある一本道。すれ違うクルマは無し。自分のクルマの音だけが聞こえてくる静かな山道。

ひたすらスギやヒノキが生えている道を走って行きます。周囲には人の気配がありません。本当に静か。まるでこの世に自分しかいないかのような。

きっと、今この瞬間、渋谷のスクランブル交差点は多くの人が行きかっているでしょう。しかしこの山道には半径数キロは僕しかいないでしょう・・・・飛行機ならほんの数十分で都内から飛んで来れる距離ですが別世界です。

これから、あの、大きな事故があった現地に行くという緊張感も重なり、非日常的というか、この世ではない次元の場所を目指しているかのような気持ちになりました。

ヒトは天国を信じ、死後の世界は空の上にあると信じてきました。山の上へと続いていく登り坂。家を出発しすでに4時間程度も山の上の方を目指し走っています。





山の上というか・・・・・空が近くなってきますので、空を目指して走っているような。

天国への回廊?・・・・明るくて、陽射しが強くて、夏から秋に移りつつある青い空。

長いトンネルの出口は空の中に続いているような。そんな気持ちに。


山の向こうの空の、
空の向こうの山。


そんな所に、御巣鷹の尾根があるようです。




上野村の国道にあった御巣鷹の尾根への案内看板を曲がってから、ずいぶん走った記憶があります。緊張感のせいでどれくらいの距離だったか?覚えておりませんが、かなりの距離を走って駐車場に着きました。

駐車場にはクルマが数台。登山の支度をしている方が。

あ・・・・ヒトがいる・・・少し安心しました。

僕はクルマを下りてシューズの紐を締め直したり荷物を確認しました。首にタオルを巻き登山者スタイル。

さて向かうかと、先を行く方を追うと、登山道の向こうに、ゆるやかな傾斜の道が見えていました。

★急な斜面の霊園
JAL職員さん、遺族の皆様、様々なボランティアさんが常に現地に訪れているようで、ゴミ一つなく、本当に綺麗な山道です。

緩やかな山道。沢があり綺麗な透き通った水が上の方から流れてきております。飲めそうな気がするほどキレイです。

ゆるやかな傾斜の山道をしばらく歩いていくと、急な斜面の空間に辿りつきます。時間にして20分程度の道のりだったと思います。

その斜面を見上げると、ご遺体が発見された場所に建てられている墓標が点在しております。

ですから一帯には500基以上の墓標があるはずです。

そこまでの傾斜はゆるやかですが、その空間から先は急な傾斜となっており、そこまでの空気とは明らかに異なります。

霊園とも言えるその空間。墓標のあるその空間は基本的には急な傾斜です。急な傾斜にある霊園のような印象です。

ここから先が、あの、JAL123便が墜落した現場。深呼吸をし手を合わせました。

蝉の声が耳に入ってきました。僕はあまりにも緊張し、その瞬間まで蝉が鳴いている事すら気づかなかったようです。

それぞれの墓標に辿りつけるように手すりと階段が作られておりますが、本当に急な斜面です。気を付けないと転落事故を起こしそうなレベルです。(実際に事故が起きています。これから訪れる方は注意です。)

僕は、急な斜面に設置された階段を登りはじめました。最初の墓標の前に辿りつきました。お名前、享年、ご遺族からのメッセージなどが刻まれていました。

墓標は統一されたものではなく、石であったり、チタン製のモニュメントであったり、様々な素材や意匠でした。一般的なお墓のような意匠の墓標もありますし、生前にご縁があったものをイメージしたものであろう意匠の墓標も。享年が刻まれている墓標もあり、幼児の墓標であると尚更胸を痛めました。

墓標に手を合わせながら尾根の頂上を目指します。

途中、墓標に備えてあるコップが倒れていたので(強風で倒れたのでしょう)、汚れを落として元に戻しておきました。ペットボトルの水を入れて。

とにかく足元に気を付け急な斜面を登っていき、尾根の頂上につきました。そこには少しの平地があり、ニュースなどでよく報道されている「昇魂之碑」がありました。

昇魂之碑がある平地部分は報道で見ていた印象よりも狭かったです。

報道陣が集まったら遺族の皆さんはあまり入れないような広さの平地です。急な角度で切り立っている尾根の頂上なので、あまり広い平地を確保できないのでしょう。

昇魂之碑に線香を。合掌。先に訪れていた方の線香の匂いが残っていました。その方は全ての墓標に手を合わせて先を行きます。

そこから見える向かい側の尾根の稜線には、通称:U字溝がありました。墜落の寸前に主翼を接触させたために、向かい側の尾根に削れた場所があり、Uの字に見えるので、そのように呼ばれるようになったそうです。その尾根の稜線に主翼を接触させたと同時に分解が始まり、その接触から約二秒後に、今立っている昇魂之碑の辺りにほぼ逆さになりながら衝突しました。

昇魂之碑の近くには、衝突地点を示す石碑も。墜落日時、犠牲者数が刻まれています。その石碑が先に建立され後に昇魂之碑が建立されたとの事。

uenomura-map.jpg

※現地で配布されている案内図を撮影させて頂きました。他のブログさん等で公開されておりますので、このぶろぐでも公開させて頂きました。Uが主翼が接触した稜線。そこから数百メートルの地点が墜落地点。現在は昇魂之碑がある場所

コクピットにて機長さんらは、なんとか帰還しようとあらゆる操作を試みていた事が公開されたボイスレコーダーから分かります。油圧系統オールロス。車輪を出して空気の抵抗差などを利用するなど羽田帰還に向けて戦いました(油圧を全て喪失しているので重力を利用し車輪を出した)。

しかし力尽きこの地で墜落してしまいました。



機長は歯が発見されただけとの事。合掌。ボイスレコーダーの最後の瞬間に衝撃音と機長の「ダメだ!」という声が確認できます。「これはもうダメかも分からんね」とのセリフは有名ですが、僕は最期の瞬間の声が耳を離れません。

事故当時は樹が焼けたり倒れたりしてしまっていたそうですが、その後、植樹された事もあり森のようになっておりますが、周囲に比較し樹が若く幹が細かったり、折れた樹が残っているので、何か大きな事故があった現場である事を物語っております。よく見ると焦げた跡があちらこちらに残っています。

ボルト?などの鉄製?の小さな破片のようなものが落ちていたりして、全ての部品を拾いきれていないようです。(2010年当時の話です)

★奇跡の沢へ
さて

招魂之碑は尾根のほぼ頂上です。事故直後には意識があった男の子や生存者が発見された沢は、その頂上付近から見下ろせる急斜面を下った辺りです。

僕はその沢へ向かって、細い急な道を下りていきました。息が少し切れてきます。

下っていく急な斜面にも多くの墓標。ご遺体が発見された場所に様々な素材と意匠の墓標が。この斜面で発見された方が多かった事が墓標の数で分かります。

ラグビー仲間達が作った、チタン?ステンレス製?のモニュメント。仲間からのメッセージから愛されていた方だと分かります。合掌。

かわいいお地蔵さんの石造の墓標も。享年から察するにOLさん。大阪出身のようです。盆の帰省の為に乗ってしまっていたのでしょうか。とてもかわいいお地蔵さん。かわいいものが大好きだったのでしょうか。合掌。

多くの墓標に手を合わせていきます。

坂本九さんの墓標も。合掌。坂本九さんの墓標が特別扱いされているという事はなく、坂本九さんのご遺族さんがそのような申し出をされているのでしょうか。

大変急な斜面です。足を滑らせたら大変な事になります。細い道をゆっくりゆっくりと降りていきます。

森の中ですから、光と影と緑のコントラストがとても鮮やか。常に清掃されており綺麗ですから、もしも、関東地方で綺麗な空間ベスト10を選べばその上位に入る事は間違い無いでしょう。

昇魂之碑から急斜面を下り、沢を目指したわけですが、その沢はスゲノ沢と呼ばれております。生存者が発見されたのがスゲノ沢です。

昇魂之碑から250メートル下ったところにあるそうですが、急な斜面に整備された細い道はうねるように続いているので、スゲノ沢にはなかなか辿りつけません。

U字溝と呼ばれる向かい側の尾根の稜線に主翼を衝突させ、機首は昇魂之碑の辺りに衝突。機体後部は別の動きをしておりました。昇魂之碑からスゲノ沢までは急斜面ですが、機体後部の一部がその急斜面を、スベリ台を滑るように樹をなぎ倒し、それがブレーキとなり機体の破壊が進みつつも、スピードが落ちながら下り、スゲノ沢で停止したそうです。

生存者の川上さんは機体最後尾の席に。そして他の生存者さんは最後尾付近の席でした。この事故では機体後尾がライフゾーンとなったのです。

さきほども語りましたが、最後尾付近の乗客には、事故直後には生きていた方がさらに何人かいらっしゃったという証言があります。18時56分に墜落し翌日の昼頃まで救助が遅れたために亡くなってしまったと思われます。二桁の生存者がいたはずと言われております。

実は米軍のヘリが事故からすぐに日本の組織より先に到着し、救助に降りようという直前に日本政府から撤退して欲しいとの連絡があり基地へ戻ったとの事ですが、その時に、人命優先で米軍からの協力を快諾していれば、生存者が増えたのではないか?という考察がありまして、僕はその考察の通りだと思いますし、事故直後に頑張っていた男の子も助かったのではと思うのです。

★ウィキペディア関連ページより引用します。

「1995年(平成7年)8月、当時123便を捜索したロッキードC-130輸送機に搭乗していた元在日米軍中尉が、事故直後に厚木基地のアメリカ海兵隊(のちに座間のアメリカ陸軍と訂正)救難ヘリを現場へ誘導したが、救助開始寸前に中止を命じられ、またその事実も他言しないよう上官から命令されたと証言した。

生存者の証言によると、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったという。また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃している。マスコミ各社は「日本側がアメリカ軍の救助協力を断った」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まった。」★引用終わり

さらには、墜落地点を米軍や自衛隊がすぐに確認していたのに、その情報が活かされずに、無駄に時間が流れていきました。12日の18時56分に尾根に接触墜落。生存者発見は翌日の午前11時のことになります。日本の行政の悪しきところが露呈。別な事故が起きていたと言えます。

そしてさらに、夜間でも着陸できるヘリコプターをどの組織が所有しているのか?共有されておらず朝を迎える事となってしまったのです。

僕は社会人になり、それなりのスキルを求められる業種に就き、僕自身も、日本の組織でよくある、いわゆる縦割り行政といわれる、そんな事情に挟まれて、あともう少しで結果を残せるのにというところで、謎の力が働きプロジェクト解散という目に遭った事がありまして、どうして結果優先できない国民性なのかなと、そんな理由からも、スゲノ沢の事故直後の生存者の方を思うと無念と悔しさで胸が張り裂けそうになります。

そんな自分の過去の事と、男の子の事を思いつつ急斜面を下りていると、綺麗な水が流れるスゲノ沢に辿りつきました。

プレハブがあり、寄せ書きが納めてありました。スゲノ沢にも多くの墓標がありました。

その墓標の中には、事故直後に生きていた男の子の墓標もあるのでしょう・・・・
どの墓標かは分かりません。僕は犠牲者の皆さんと、その男の子を想い、黙とうを捧げてきました。


その空間に、その男の子の魂がいるかは分かりません。きっと街へ下りているでしょう。

ここには魂がいないとは思いつつ、僕はその男の子に約束しました。

僕は木のオモチャ制作の仕事もしております。お客様はママさん達がメインです。
悔しい気持ちを、ただ、悔しいと思うだけでは何も変わりません。であれば、今後僕は子供たち、ママさん達に木のオモチャを作り続けよう。そして、オモチャでけがをしたりしないように、必死に、一生懸命に角を手作業で丸くしよう。

手作業で行っていたら、時間が膨大に掛かり大変です。でも、続けよう。と。

そして

困っている人、助けが必要な人がいたら、組織がどうのとか、国籍がどうのとか、そんな事を気にせずに、助けに飛び込む勇気を持ち、生きて行こうと。



お供えしたいと思って木のオモチャを持っていきましたが、現地を清掃する方のお仕事を増やしてしまうかと思い、気持ちだけを置いてきました。



スゲノ沢を下っていくと、最初の登山道に戻りました。ここに来る以前の気持ちと、帰路に入った瞬間の自分の気持ち。明らかに何かが変わっていました。

僕は行ってよかったと思っております。ずっと心に引っかかっていましたが、ただ悲痛に思い出すだけでなく、その気持ちを何かを生み出す力に転嫁させる決心がつきました。

僕もいつか死ぬ。永遠の命ではない。時間は有限だ。
生きている時間は短い。であれば、生きている時間は全て、何かを生み出す時間に使わねばならない。命を全うするのが生きている者の使命。

1秒すら無駄にするな・・・・と。

僕のように、JAL123便の事故について、心に引っかかるモノがある方は、ぜひ、慰霊登山をされると良いと思います。


記事を終わりたいと思いますが、最後にオスプレイ問題について私見を残しておきます。


★危ないのだから仕方ない
皆さんもご存知かもしれませんが、敗戦後に米軍が進駐していた頃には、現代(2017年)よりも、もっともっと、航空機事故が起きておりました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

ウィキペディアのエントリーへのリンクですが、日本国内における米軍の航空機事故一覧です。

朝鮮戦争の頃はバタバタとしていたようで、ものすごい事故の数です。
僕は埼玉県川越市在住なのですが、川越でも墜落事故が起きております。

こちらのエントリーはあくまでも米軍の事故。日本の航空会社が起こした事故も多くあります。

米軍の墜落事故が、こんなにも起きていた事は最近知りました。昭和29年なんて毎週のようだといっても過言ではないような?

なるほど。米軍機オスプレイの質が不安定な為に、反対運動をしている方は、このような過去の記憶があり、猛反対していたのですね。

事故で命を落とした幼児が少なくはありません。ママさんと幼児が巻き込まれた事故も。

そんな事故が記憶にあれば、まだまだ質が不安定なオスプレイの飛行に猛反対する人がいるわけです。そういう経緯を知った僕も猛反対ですね。

確かにオスプレイは便利な飛行機です。あれが安定的であれば素晴らしいのですが、事故が多すぎますよね。

僕は米軍の軍人さん達にはいつもご苦労様ですと申し上げたいのですが、過去の事故を思い起こせばオスプレイを日本の上空で飛行させるには時期尚早だと思います。それとこれは別という感じです。

JAL123便でトラブルが発生し、迷走し始めた時に、米軍横田基地から123便にコールがあり支援に動いて下さった事。迷走する123便を米軍航空機が目視で確認していた事、夜間にヘリで真っ先に現場に乗り込もうと動いて下さった事。忘れてはなりません。米軍の行動力、意志決定の早さ、本当に心強いものです。この国は米軍と自衛隊で守らている訳ですが、憲法九条がある日本において、腹黒い国やテロ国家を睨んでくれているのは主には米軍の皆さんです。本当に感謝します。

しかし・・・・・

オスプレイが墜落する可能性がそれなりにあるのに、過去の事故の犠牲者、ご遺族の気持ちをおもえば、まだまだ時期尚早です。天国から「また繰り返すのか!」と怒って当然です。

事故から数十年経っているとしても、忘れてはならない記憶があるはずです。

ソフトが原因か?ハードが原因か?オスプレイはまだまだ不安定ですから、とにかく成熟するまでは日本の上空で使うべきではありません。多くの事故を起こしているのですから。

便利なのは分かります。熊本での大地震の時に援助物資を積載したオスプレイが学校に着陸した事がありました。すばらしいコンセプトの航空機です。

しかし・・・・・不安定なのは否めません。

もう一度言います。忘れてはならない記憶があるはずです。米軍関係者の気持ちも理解できますが、オスプレイは過去を踏まえれば時期尚早です。

命は大切です。命は返ってきません。

今は広大な砂漠などでオスプレイの完成を。

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